砂川昇健の人生論:~絶望からの独立~

~ 第4回:絶望からの独立 ― IT革命と「因果」「無常」が導く新たな道 ~

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独立

絶望に暮れた私は30歳近くになっていました。それから、兄の紹介してくれた「IT企業」でアルバイトを始めて、最初は車両に取り付けるカメラやモニターの修理や受付を行っていました。この「IT企業」は「某大手運送会社」の成長期にシステム構築を支えた会社でした。当時はシステム言語が「COBOL」や「C言語」などが主流で、たいしたことが出来る訳ではありませんでした。そして、「業務の効率化」と「人員削減」といった「後ろ向き」なシステム構成が主流でした。

飛行機の写真
前向きな戦略を立てる航空業界

そこに革命をもたらしたのが「アメリカンエアライン」と「IBM」が開発した「チケット販売システム」です。当時、航空業界は急速に成長していましたが、チケットの予約や販売は手作業で行われており、非効率的でした。この時代、多くの企業はコンピュータシステムを「効率化=コスト削減」のために活用していました。しかし、アメリカン航空はその思考を超え、収益を拡大するためにコンピュータシステムを活用するという前向きな戦略を立てたのです。

「アメリカンエアライン」が開発したチケット販売システム「SABRE」の特徴は以下の通りです。

インターネットが普及した現在では当たり前のことかもしれませんが、ネットワークのインフラが整っていない時代には大変な革命でした。

そして、某大手運送会社も大口顧客のための「荷主端末」を開発し設置するようになりました。荷札の発行やデータ送信などにより、送り状を印刷する時間を短縮できることが荷主の最大のメリットです。このシステムは某運送業者が急拡大していく大きな要因となりました。兄はこの運送会社の役職者でシステム立案から設計まで深くかかわっていましたが、さまざまな要因で会社を去ることになってしまいました。

その後、兄は京都でシステム会社を設立しソフトウェアを開発するようになりましたが、ライバル会社の運送会社から「荷主端末」の開発を依頼され、次第にこれが主力事業へと成長していきました。また、この運送会社は東京以北にも営業所が多かったため、私が東京に会社を設立することになったのです。私は32歳になっていました。18歳で上京してから実に14年もの月日が流れており、その間一度も田舎に帰らなかったため、私の田舎では「砂川昇健は自殺した」という噂が広がっていたそうです。

以前の勤め先の後輩2名ほどを誘って会社を設立しました。そして、運送会社の支店に営業に行ったところ、大変な事実が判明したのです。何と、この東京支店は名前こそ同じ運送会社でも、独立した別会社だったのです。しかも先代から息子へと代替わりしており、京都側とは折り合いが悪かったのです。専属会社がすでにシステム構築を担当しており、私たちのような後発企業はまったく相手にされませんでした。絶体絶命、売り先がない状況でした。

それでも家賃や人件費などの固定費は毎月支払わなければなりません。途方に暮れていましたが、この運送会社は過疎地を「傭車(ようしゃ)」でカバーしていることが分かりました。傭車とは、大手運送会社が繁忙期などに自社の車両が不足するときに下請けの運送会社や個人ドライバーに依頼する仕組みで、「傭兵+車」が語源だそうです。そこで、傭車契約をしている運送会社へ片っ端から営業をかけていきました。しかし、零細企業ばかりなので大口荷主などありません。そこでこの端末を設置し、月間100万円以上の荷物を出荷してくれることを条件に営業活動を行ったのです。

来る日も来る日もドライバーの助手席に乗って荷主へのプレゼンテーションを繰り返し、年間9社の荷主を獲得しました。何とか生き延びることができましたが、この経験は後述するように、私たちのその後の運命に大きくかかわることとなりました。

トラックの写真
必死の営業活動で生き延びる

仏教的視点との関連

ハードル走の写真
逆境であっても行動し続ける

私の経験は、絶望の中から努力と知恵で道を切り開く実例であり、仏教の「因果」「無常」「精進」の教えを強く感じさせると思います。逆境であっても行動し続けることで新たな可能性が開かれるという示唆を、多くの社員に伝えることができれば幸いです。(続く)

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著者プロフィール
砂川 昇健(すなかわ しょうけん)
沖縄県石垣市出身。高校を卒業してすぐに上京し、「一旗揚げるまでは帰らないぞ」と誓い、様々な職を経験した後、1998年7月24日に株式会社システムアートを設立。以降、現在まで代表を務める。
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